裏プロフィールその2-仕事人編-

挫折

演歌をやる為に何年もがんばってきたのではない。まじめに音楽と向き合い、己を削ってきた10年。栄養失調は2度経験している。悩んだ。何日も。吐き気をもよおす程悩んだ末、私はミュージシャンを引退することに決めた。挫折。当時の私にとって、これほど嫌な言葉は無かった。

アルバイト。この先は、ミュージシャン時代と重複しています。

この裏プロフィールでは、ここまで一切触れていないが、塗装の仕事はしていた。それは、食う為の手段であり、またちょっと面白みもあった。塗装の仕事は、上京して1年が過ぎた頃が最初であった。友人の紹介で、町場のペンキ屋に入った。ここでは、ある宗教の人達が多く、内容的に人に指図してはならないらしく、必然的にリーダーとしてやらされる事になった。腕は・・・ひどい物だったと思う。リーダーであるが故に、色々とやれた。足場組み。当時はまだ丸太足場を使っており、三間半の丸太はまるで昔の電柱であり信じられない重さだった。しかし慣れとは恐ろしく、それを持って階段を上り下りしていた。吹き付け。リシンや吹き付けタイル、トップ、何でも出来た。刷毛、ローラーは無論。

どれくらいこの店に居たかは定かではないが、体よくクビにされた。理由は受注の落ち込みと、社長の見積りミス。何人も辞めさされた。その後は、近所の人の紹介で、また違うアルバイトをすることになったのである。

アルバイト

次に始めたアルバイトは鉄工所。大きな機械やメーターなどが入る箱を作っていた。シャーリング,ベンダー,セットプレス・・・色々覚えた。しかし現在、何よりも役に立っているのがディスクサンダーの扱いである。削る事。しかし半端ではない。私がやると、平らでツルツルになる。

音楽の仕事が忙しくなり、しばらくやめた。このときの仕事は、今では超有名になったシンガーソングライターのバンドリーダーだった。彼女は、はっきり言って天才!後にも先にも、ここまでの人には出会わなかった。ずいぶん恐れ多い事をしていたものだと思う。何せ私が、それらの曲のアレンジまでやっていたのだから。しかし残念ながら、数ヶ月でまたバイトに復帰してしまったが。

程なく、ミュージシャンの先輩から、ペンキ屋のバイトをしないかのお誘いを受けた。経験があるのと、今までで一番手間賃が良かったので、やってみることにした。

現場はほとんどが野丁場である。清水建設,真柄建設,竹中工務店・・・・。大半は清水建設だったと思う。この頃は建築バブルと言われ、一般的に言われるバブル崩壊より2年ほど後まで続いた。職人が少なかったのであろう、どの現場も私が現場代理人だった。現場を知る私だけが、子分を何人も連れてくる親方衆に指示できた。たぶん、その数は300人を超えるであろう。幾人もの職人さんを見た。そして、彼らのする作業をほんの少し見るだけで技量が分かるようになった。しかし、私に余裕はなかった。いじめられたのである。

試練

いじめの理由は、ズバリ“2足のわらじ”をネタにされた。この頃はあくまでもミュージシャンだったのだから、バッシングを受けるのも無理は無い。気にしない事で勝手に解決した。今後は一切、音楽やミュージシャンの事は話さないでおこう、と思った。しかし不思議なもので、実際に理解を示す人も居たのも事実である。それは最近の話ではあるが・・・。

この頃、結婚。結婚して音楽の仕事が無くなった時、急場をしのぐために新聞の折込にあった吹き付け屋に入った。とんでもなくこき使われた。朝は早く、帰りは遅く、昼食時間はあっても20分。今、思えば良い経験である。体力は付いたし、実際に吹付けに関する技術は盗めた。この会社の社長は、現場を離れて久しい。息子(私より5才くらい上だったと思う)が現場を仕切っていた。息子は息子、二代目である。決め付けではないが、私は二代目に良い印象が無い。その代わり、ここの社長の事は信頼していた。しかし、それも裏切られる事となるのである。

裏切り

裏切り。嫌な言葉だ。これまで何度も経験してきた。別に私は、人が良すぎる訳では無いと思う。“騙すより騙される方がマシ”、と言うのはずっと考えてきた事だが。吹付け屋での裏切りは、信頼していた社長によるものだった。

過去に野丁場をやっていた時から、親しくしてくれていたペンキ屋の親方が居た。ちょっちょく電話をくれてはちょっとで良いから手伝ってくれないか?などと言われていた。その度、“今、世話になっている店があるので手伝えない”と断ってきた。しかし、吹付け屋に入って1年半くらい経った時に、“どうしても手伝って欲しい”としつこく電話がかかってきた。“1週間で良いから、今の店に事情を話して来て貰えないか?”私にとっては金の問題ではなく、人と人の事柄でダメ元で社長に申し出た。事情一切を話し、社長は了解してくれた。いつからなど打合せをし、1週間後の来週の頭からは復帰すると約束した。

約束の1週間後に出勤すると社長に呼ばれ、“うちも仕事が減って・・・もう雇えない”。約束を破られた。信頼していた社長に。後に分かった事だが、私がクビにされた直後に新しく2名雇い入れていた。

独立への道

あわてた。悔しい気持ちはいっぱいだが、不思議と怒りはこみ上げてこなかった。妻を食わせられなくなる恐怖と同時に、彼女の親戚衆のプレッシャーの方が怒りより大きかったのだ。すぐに一昨日まで手伝いに行っていたペンキ屋の親方(加藤さん)に電話し、事の次第を話した。親方は責任を感じ(本当は責任は無いのだが)、その後もしばらくの間、仕事を手伝わせてくれた。しかしそれも長くは続かず、仕事の無い日々を迎えることになった。

この時、どこかの店の職人や社員になろうという気持ちにはならなかった。今を以っても不思議である。ほんの一週間の一人親方経験が独立の道を歩ませていた。1994年(平成6年)の11月だった。

次にとった行動は、やはり昔に野帳場を渡っていた頃の親方衆に連絡を取ることだった。とは言っても、あと一人しか居なかった。とりあえず電話をすると、ちょうど忙しい最中で快く迎えてくれた。現場は成増、滝山、横浜市旭区、両国、中野と場所はばらばらだった。今でも忘れないのが成増の現場での事である。そこは、1フロアーが30所帯ほどある大型マンションの塗り替え工事現場であった。私がすることになったのは、玄関が続く廊下にある面格子の塗装だった。同じ大きさ、形の格子が30ほど並んでいる。それを他の二人(二人は同じ店の人)と一緒に組み、横に並んで塗っていくのだ。そこで問題になるのはスピードの事だ。3人で一個ずつ塗って横移動、すなわち遅いと順番がずれ、あきらかにこいつは遅いと分かる。必死であった。一人親方になったプライドと同時に、吹付け屋に居た1年半の間刷毛を持つことがほとんど無かった。あせりで顔は涼しく装ったが額には大汗をかいて作業をした。二人のうち一人はかなり達者な人だったが、私とこの人は同じペースで塗り進んだ。お互いに“やるな!”と思ったかどうかは知らないが。私はこの後、名刺を差し出し名前を覚えてもらおうと思った。すると相手からも名刺を差し出された。山下さん、聞けば15年ほど親方を張っているバリバリのペンキ屋だった。どうりで上手いはずだ。色々話をし、情報交換(?)をした。上記にある多数の現場は、山下さんの口利きもあって仕事にありつけていた。

数日して加藤さんから電話をもらった。新築住宅の外部吹き付け10棟口をやらないかと

没頭

1995年1月、吹き付けの10棟は建売住宅であった。加藤さんはA工務店の下請けとして仕事をしていた。詳しくは、建売住宅の不動産屋→設計事務所→A工務店→加藤さん。駆け出しの私は単価もろくに知らず、支払いのすべては加藤さん任せであった。現場では食事の時間も忘れ、作業に没頭していた。後が無いプレッシャーと、一つのミスが仕事を失うリスクをはらんでいた。

もう一つのリスクもあった。この時点ですでに職人を雇っていたのだ。ミュージシャン時代の後輩A。過去に塗装業界というか職人にいなることを勧めた。彼は、私が裏切られた吹き付け屋に紹介し雇われていた。私がやめた後、彼はいじめにあって仕事をやめた。後になってそれを知った私は、単純に作業量を増やすために雇っていたのだ。手間賃も折半すればなんとかなると。額面上は私が彼より3千円~5千円くらい多くしていたが、諸経費を差し引くと彼の方が私より所得が多かったのは後になって解った。

数日後の1月17日朝、現場へ向かう車の中で地震のニュースを聞いた。実家のある兵庫県、阪神淡路大震災である。

大震災

1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災は実家を襲っていた。何とか母に電話が通じた私は、翌日実家のある兵庫県西宮市に向かった。

実家は阪急神戸線の西宮北口駅そばである。幸いにも電車はこの駅までの折り返し、その先はすべてが失われている状態だった。駅を降りた私は自分の目を疑った。

言葉が出ない。本当に声を失ったようだった。見慣れたビルは斜めに、家々は崩れている。映画のシーンでは見慣れていても、目の当たりにすると人間は言葉を失う。

線路沿いから路地を入った所にある実家は、外見はほとんど無事であった。前年の秋に基礎の補強や、瓦の葺き替えをしていたのが良かったのか?但し家の中は、たんすはひっくり返り、柱はねじれていた。

付け加えると路地(3メートル×50メートル)の西側は比較的無事で、東側の建物は全滅であった。西宮断層のいたずらか?

電気の復旧は早かったが、何よりも困ったのが水の確保である。歯磨き、洗い物、トイレなど不自由だ。何度も給水所まで汲みに行った。

電車で15分の大阪梅田ではいつもと変わらない様子で、ものすごいギャップを感じた。たった15分しか離れていないのに天国と地獄と言える。

数日間の滞在後、東京へ戻った。

1995年春

1995年(平成7年)、この頃の私はとにかく仕事が欲しかった。仕事は切れていた。時間があるのが苦痛で空しくお酒に走った。前年の9月に長女が産まれ、妻も大変な苦労をしたと思う。考える余裕すら無かった。ただがむしゃらに働かなければ食べていけないのだけは分かっていた。仕事量を増やすしかないと思っていただけ。やったことも無い営業をもした。運が良かったのだろう、決して質は良くないが2件のお客ができた。と同時に近所の同業者と仲良くなり、互いに行ったり来たり、仕事をシェアするようになった。現在の職人、庄村が来たのはこの頃である。

近所の同業者は多忙であった。一人でやっているにもかかわらず取引先を3件と小口を2~3件持っており、その全てが稼動していた。しかし彼は家庭の事情で遠くへ引っ越すことになり、3件ほか全てのの顧客を私に引き継ぐと言ってきた。

顧客獲得

いきなり自宅に訪れた彼は、今から3件の顧客に連れて行き紹介すると言った。今ひとつピンとこないまま、すぐに出かけた。一通り挨拶を済ませたが、先方全てが私を使うとは限らない。しかし、千載一遇のチャンスであるのは間違いない。そのうちの1件が、予定している住宅外装工事を発注してくれることになった。あくまでも先方としては試しである。金額的に厳しい部分も感じたが、腕の見せ所である。工事完了後、社長に呼ばれた。今後も頼むと。と同時に、その会社のプロフィールを聞いた。20年ほど前に多摩ニュータウンの土地分譲における住宅新築工事で、全国の大手ハウスメーカーを抑え、受注量堂々1位になった注文住宅設計施工の会社。それも約10年間で300軒の施工実績を持っていた。今ある“住宅性能10年保証”は、この社長が提唱し、お役人と共に作り上げた。そのエンブレムは、この会社のものと酷似しているのがその証拠である。そして今の仕事は新築工事をやめ、300軒の顧客のみをリフォーム、メンテナンスをするという方式で仕事をしていた。「会社をたたんでも貯えと年金で十分暮らしていける、仕事はお客さんのためにやっている」が、社長の口癖であった。実際に細かい仕事も嫌がらずにサービスに努めていた。

私にとっては大きな喜びであった。会社の実績や仕事に対する情熱に惚れた、そして私も社長にも気に入られた。

ホームページの目的(1)

2004年5月に開設しチビチビと更新しているこのホームページも、気が付けば2年が過ぎていた。

この裏プロフィールは日々更新する日記と別に、生き様と言うか、過去を省みることにより成長を促すのが自身に対する目的。対外的には私自身を少しでも深く知ってもらうことができると考えた。無論、理解をされないかも?というリスクはあった。万人に興味、理解をされることはありえないとも思ったので、ここまで書き続けた次第である。でも本当の理由は、訪問販売系の悪質(?)、いや儲かるシステムを思いついた業界に対し、かっこよく言えば正義感のみで、私個人のブランドを定義して戦うこと。もちろん、それらに脅威を懐き、自身の生き残る術はこれしかないとも思った。過去には、私も外注(下請け)を使い、現場をこなしてきた時期もあった。塗装工事だけで14社の発注歴がある。思い立ったビジョンに反することなのでやめた。偶然、近所で見た他社(有名店)の不良工事がきっかけである。

ホームページの目的(2)

私は考えた。多くの時間を費やして。顧客に対し非常にナーバスになった。顧客の立場をイメージし“いやなこと”は全て排除することを選んだ。広告など他社と同じことをしてはいけない。少しでも“しつこい(営業)”や“仕事ください”と思われる発言をしない。代金の相場を知りたい人にはそのように、やり方を知りたい人には包み隠さず教えた。自分の時間を使い、全ては奉仕からと考えたのだ。対価は求めない、当然である奉仕なのだから。一般の消費者の底上げ、“知識”をつけてほしい!正しい選択をし、“失敗”しないでほしい。私に工事を発注しなくてもいい、結果に満足できれば。

少しでも私がやっていることに興味を持ち、少しでも理解されれば目的は達成である。仕事(収入)にならなくてもよい。本物は必ず生き残れる、今ある技術、資格、知識・・・どれをとっても他社に劣る部分は無い。それだけでこの2年間は過ごしてきた気がする。