裏プロフィールその1-ミュージシャン編-

プロローグ

ここでは、私の裏プロフィールをご紹介いたします。裏プロフィールと言っても、これまでの私の人生の出生から現在までの経験談を書いたものです。自分史のようなものです。よって、徒然なるままの駄文,ご容赦願います。

1964年、兵庫県宝塚市で生まれました。その後、私が2歳になる前に父が病死し、母と母方の祖母の家に移り住みました。兵庫県神戸市です。小学校の中学年頃に祖母亡くなった後は、ずっと母一人子一人で暮らしてきました。その後、中学2年より現在の実家でもある兵庫県西宮市に引っ越し、その新しい中学でエレキギターを弾く友人に出会いました。これが私のその後の人生を決定付けた、と言っても良いでしょう。

練習に明け暮れました。と言っても、今ほどは楽器を持つ人は少なく、手頃な教則本と言った物も少なく、近所でのスクールは皆無に等しく、楽器店に足しげく通い、店の人が試奏をしているのを見て覚えていったのを記憶しています。何せ、がんばってギターを買って練習しようにもチューニングさえ分からなかったのですから。。。

青年時代

一言でギターと言っても、エレキかフォークかを選択しなければなりません。その頃好きだったのがキッスとアリス。選ぶのに時間はかかりませんでした。迷わずエレキギターを選びました。今考えれば恥ずかしいですが夢はロックスターです。この頃世に出たギターマガジン創刊号にメンバー募集広告を載せ、勘違いぶりを発揮し始めました。

高校時代はバンド活動に没頭しました。ハードロックが好き。リッチーブラックモアが好き。どうやったら上手くなるかなどと考えている事は、今と大して変わらないようにも思います。しかし、高校3年にもなると進路を決めなくてはなりません。母を説得し、東京で本格的に音楽をやることにしました。大が付く親不孝者です。東京に行きたいと言っても先立つ物がありません。アルバイトをしていた靴の販売店で、1年間だけの約束で契約社員を始めました。

場所は大阪の天満。天神橋筋商店街。めちゃめちゃ競争の激しいエリアです。販売のスタイルは客待ちではなく、店の中から大声を張り上げお客さんを店に呼び込むのです。しかしどういうわけかこの店に馴染み、どんどんと私の固定客が増えたのです。その数100人。ずっと後で店長から聞かされました。たった1年でよく・・・後が大変だったとも・・・。そして約束通り店をやめ、上京するのです。

上京

契約社員をやってためたお金、100万円を持って東京都調布市にある武蔵野音楽学院に入学しました。無論、母の援助なしでは出来得ないことです。

2年間のカリキュラムのプロ養成課。私は音楽理論を集中的に勉強しました。その甲斐あってか、クラッシクで言う楽典を一年間でマスターし(入学時は楽譜は全く読めなかった)、プロ養成課をやめ一般課に移りました。学費が高かったのと、退学するとネットワークを失なってしまうと考えたのです。

目的や方向性、上を目指す仲間が増えました。東槙 靖(G),鷹家 剛志(Ds),小荷田 良晴(B),平向 則美(Key)。学院では学内コンクールに出場し、予選でダントツ1位。新宿ピットインで本選に出場しました。でも結果は三位。こんなものです。

その後、初めて自分がリーダーでない他の人がリーダーのバンドに加入しました。そのバンドでは今まで味わったことの無い試練を経験することとなったのです。

先輩バンドでのライブ

21歳の私が加入したバンドは3~7才年上のプロミュージシャンだけで構成されたグループだったのです。それも一週間後にライブを控えた状態で。

練習をしまくった。しかし楽曲が難解すぎて手に負えそうも無い。リーダーの佐藤 靖氏(B)に申し出た。クビにしてくださいと。迷惑を掛けるのは本意ではない。考え抜いた末のことだ。

しかし佐藤さんは私をクビにしなかった。私に加え、元このバンドのメンバーであった佐瀬 弘氏(G)に加入してもらいリハーサルをし、本番を迎えることにしてくれた。

結果・・・・・ボロボロ。私だけではない。全体がである。このことが私にとって大きな転機となる出来事であった。

リベンジライブ

先輩ミュージシャン達はプロである。ボロボロのライブをやってプライドが許すはずもない。私は、彼らの次にやるリベンジライブにも参加できることになった。

難解な楽曲も、かなり小慣れてきた。そして1986年10月20日、四谷フォーバレーでリベンジライブが行われた。佐藤 靖(B), 野川 恵美子(Vo),山本 政彦(Ds),斉藤 聡(Key),佐瀬 弘(G),東槙 靖(G)。全員がそれなりの満足を得た。このバンドはその後、数度のライブで打ち切り、ほぼ同じメンバーで更に難解な方向へ進むのである。

音楽の仕事を始めたのはこの頃だったと思う。クラブでのジャズ演奏,歌手のバックバンド・・・色々やった。とにかく仕事がしたかったのだ。こんな事をやりながら数年間が過ぎた。

更に難解な方向へ進み出した新しいバンドは、ライブをやらず練習のみの勉強バンドになった。佐藤 靖(B),斉藤 聡(Key),井上 尚彦(Ds),東槙 靖(G)。私はもちろん、他のメンバーも必死だったに違いない。

自己のバンド

勉強バンドは程なく活動を休止した。当然である。彼らは完全なプロミュージシャンであり、お金を稼ぐことが本来の目的でもある。ドラムの井上氏のブレーンによるユニットが沢山あり、その関係でずいぶんと多くの人と知り合えた。塩本 彰 氏(G),岩田 浩 氏(G),北川 涼 氏(G)・・・・・。ミュージシャンには垣根が無い(と、今でも思う)。皆、一様にクセがあり・・・これは個性と言うべきか?楽しく、時に厳しく、素晴らしい先輩達だ。無論、今でも現役バリバリである。私は彼らとの差別化を考え、自己のバンドを結成することにした。簡単に言うとフュージョングループである。東槙 靖(G),井上 尚彦(Ds),小荷田 良晴(B),平向 則美(Key)。

自己のバンドは、私にとって、音楽人生を賭ける大きな決断であった。結果を出さなければならない。それは売れる売れないではない。メンバーは元より、他のミュージシャンにも理解される音楽が作れるかどうかである。1週間に1曲の新曲。これが自分自身に課した課題である。生みの苦しみを知った。本当にアパートの畳の上をのた打ち回った。だが結果はすぐに出た。

以外にも良いのである。まったくの自画自賛ではあるが、今でも本当に自分の楽曲を愛している。如何にして音楽理論から外れたコードプログレッションを見つけ、美しい流れにもって行くか、自分にとっての大きなテーマである。数ヶ月間の製作の結果を求め、吉祥寺のシルバーエレファントでライブを開いた。

自己の音楽

自己のバンドの実験ライブはとにかく楽しかった。プレイをしていてこれほど楽しかった事はない。当然の事ながら次なる課題も噴出した。

実験ライブは、前・後半1時間ずつのの2ステージで行った。ライブハウスにとってもギャンブルであったろう。実際に客の入りは悪かった。しかし私には関係なかった。それよりも、音楽を追求する事の方が大切だったのである。

次なる課題は、1番に楽曲の濃度。2番に集客である。もちろん私は、1番の事だけを考えていた。しばらくの間、作曲と編曲に時間を費やしていたので、自分のプレイが思うようになっていない。ちょっと練習をした。

この頃また、変な奴と出会った。今の妻である。

妻との出会い

妻との出会いは、渋谷のエッグマンで行われたタラコ(ちびまるこちゃんの声の人)のライブである。タラコのバックバンドに、彼女と共通の友人がいた。お互いに招待されていたのである。

彼女とはその場でなんとなく意気投合し、ライブの後、六本木にまで繰り出し、彼女の友人達と朝まで飲み明かした。この店では、テレビでよく見る人達とも楽しく飲めた。

妻とはなんとなく出会って、なんとなく付き合い始めた感じである。彼女の過去・・・・複雑な諸々ではない。ただ長年、タレント活動をしていた事を除けば。

タレント

彼女は元スクールメイツであり、その後、日本ビクターからCDを3枚もリリースしていた。正直、驚いた。スクールメイツでは、当時の日本テレビを除く全ての歌番組のレギュラーだった。レッツゴーヤング,ザ・ベストテン,夜のヒットスタジオ,ヤンヤン・・・,紅白歌合戦など沢山。

CDは獅子舞と言う3人組のグループで、クレジットには名前の後にギターとある。ちょっぴり嫉妬した。ほとんど弾けないのに・・・。スクールメイツ時代の活躍ぶりは、今も我家のベータテープに数十本は保管されている。

そして、そのうち、なんとなく、お互いに結婚を考え始めた。

結婚

1993年に、プレッシャーを感じながら結婚した。彼女には親戚が多く、正直そっちの方がプレッシャーだった。食わせなくてはいけない。そのうち子供もできるだろうし・・・。

私にとっては、結婚=結婚披露ライブであった。結婚するなら、結婚式はやらなくても結婚披露ライブだけは絶対にやりたかった。過去に友人達の結婚披露ライブは2度経験しており、ものすごく楽しいパーティーだった。もちろん、自分の時は来てくれた人を含め、もっと楽しい企画構成が出来ると確信していた。仲間から司会者(プロ)をたて、いくつかの仲間達に演奏をしてもらい(もちろん自分もプレイした)、彼女の友人達からもタレント,歌手,ダンサー等、凄腕の人達に出演してもらった。結果的にも大成功。涙を流す人までいた。出演者も全員ノーギャラの上、会費まで頂いた。皆さん、その節はありがとうございました。これが我々夫婦が一番輝いていられた瞬間であったと思う。

日本はバブルの崩壊を迎えていた。これは、ミュージシャンにとっても大きな問題であった。ホテルで行われるディナーショーのスポンサーは、ほとんどが企業であった。1部のステージでは経済学者の講演、その後立食パーティー。2部で歌謡ショーである。企業は経費削減に出る。1番に社員の福利厚生費のカットだ。この事により、私は音楽の仕事を失った。

ミュージシャンの友人達に声を掛けまくっていた。仕事有ったら紹介してねっ。ある友人が 電話をくれた。演歌のスーパー大御所のレギュラーの仕事である。